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御為倒し [永遠の謎なぞ]

"お・た・め・ご・か・し" と読みますが、妖怪の名前とかではありませんので、くれぐれ・・


★ 前記事の続きPSです。 :

21,000年前が氷床MAXという事で、海退により、海面は標高-130mの位置で、この頃、大陸からの民族移動があった様子が伺える。

そして7,500年前頃には現在の海面と同じくらいに海進が進んでいるから、海面上昇の速度は、年間およそ1cm程度というのが史実。

実は、平安時代は今より数メートル海面が高かったという噂があります。

あと、周期的にみて、地球は4度目の氷河期に突入している頃ではないかと言う話も

現在の温暖化現象の影響は、赤道付近で年間2cmくらいかな。? これは自然の状態とは2倍くらい早い反応とも

二酸化炭素の増加といわれているけど、エネルギー政策は顕著だと思えてる。何の影響かは戦後の生活を考えていると誰でも分かると思うけど、熱・・

いつまで海面上昇が続くのか分かり兼ねてますが、世界各地で異常気象は続いてまして、今の速度だと凡そ50~100年先ですけど、それが平安海進で氷床が無くなった時代だと考えると、その海抜+数mの先ですが、地球環境の予測もできないよね~。


あえて言うならば "ノストラ・ヤタの大予言" としましては、100年後の東京、夏の気温は50℃越え、冬の夜間の気温は氷点下50℃には達しているハズ。気候変動は特に超不安定期です。


氷河期の話に信憑性がでてくれば、5万年後には、また海抜-130mまで海退し、氷河期MAXなんだけど、その前に人類は今後の100年を乗り切れるのか、地殻変動や気候変動に関して、とても重要な今後50年になる可能性あるよね~。

極論を言えば、氷河時代に必要なエネルギーは原発なんでしょうけど、今の技術力では管理も難しいだろうし、今の地球人口ではウラン鉱石は数万年分は眠っていないよね。? お口減らし政策とかも暗黙で検討されているのかもだよね。

舵きり期間を考えていると、判断が急がれるというのが、世界レベルで会議が持たれている理由なんだとは思いたいけど、COP2x 気候変動枠組条約締約国会議では毎回、新しい枠組みも模索されている様子はあるといった状況。

悪く言うと、今ひとつ進展がないぞと言う感じかな。

まぁしかし、世界規模の経済会議や環境会議は、やはりこのような事への懸念から継続されているのだとは言える。

また近々、世界各地の企業や軍事部門でも、宇宙開発に拍車がかかっているのも、この予測があるからだと思えてきている。
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土器片 行方不明 [永遠の謎なぞ]

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-08-21
忽那諸島の縄文人

で採取していた貝殻と土器破片ですが、今後も出てくるだろうと言う事で、アミカゴに入れて現場畑に置いてたのですが、先日行ってみると無くなってました。

管理者に聞いてみると、ゴミの日に袋に入れて捨てたとのこと。

ちょっと考えられない事が・・\(汗;)/

前にも軽く伝えてたのですが改めて古い土器だと説明すると、何の価値もないモノだと言い張ってた。これ確信犯だわー。

とても強い偏見に満ち溢れてる感じでしたけど、これこそが、江戸時代以前の、この地域から歴史に関する情報がいっさいない原因なのかも知れないですね~。

7世紀後半の異国街だとか何か理由があるのだとは思うけど、島内でも、この地区だけの色濃い特色だと思う。もしかすると白村江の戦い以降、百済王の子孫一族に与えられた区域のうちのひとつだったのかも

そうなると証拠の隠滅が疑われる?!
日本人気質とも言うべきかなぁ、公務側に多そうなタイプ。ぁ、それは良い過ぎか・・


まぁ無くなってしまったものは仕方ないのですが、時代予測や風体からして火焔土器の可能性はあるのかなって思えてたのですが、近々の考古界は、なりヤバイ気がしているのは自分だけかな~



// ここでひとつ
その火焔土器って、日本で独自に進化を遂げたものとの予測なのですが、最終氷期の真っ只中で起こった大陸からの民族大移動が、その要因なんだと思う。モチーフはきっと、焚き火や火山、荒れ狂う海など、当時の日本の風景ですよね~。

それ以前、人がいなかったのかと言うと、そうでもなくて、新石器時代、旧石器時代もあるから大陸には及ばなくとも文化はあった事は史跡や遺物からも分かりますけどね。


そして、この最終氷期が終わる頃に向い、海面上昇が顕著になり、いわゆる海進が進みますが、陸と陸とが遮断されたエリアも少なくなくて、そいうった現象が後に船を生み出してゆくのだと思った。

そしてその丸木舟も、ニーズに応じてというよりは、大陸からの影響で形を整え進化しつつ、BC3~BC6世紀にはかなりしかっりしたものになり、文化の重要な伝播を担うことになっていったのだと思う。

そんな最中、皇族支配が、この倭国ではじまった分けだ。紀元前に遡る鬼伝説が全国各土地にあり、皇族の鬼退治話も良くありまして、勇敢な軍事国家が成立し易い環境も当時あったのでしょうね~。まぁいずれも何人なのかは分かりかねてますが

こんな狭い地域から出土しているなんて、結構、凄いことなのですがね~。この地域の人々、まじヤバイわ~
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高天原って何処? [永遠の謎なぞ]

こうてんはらって打って漢字変換すると「府中店原」なりましたけど、府中ではないですよね?

地図では奈良や京都、大阪あたりに高天原って地名は沢山ありますけど、日本書紀や古事記の編集の際に、地名として置き換えたものとは思えてるけど。

内容は、神武天皇以前の神々の話なので、視野は広く倭国内に留まらずだとの予測もありまして~

高千穂峡や上高地のような秘境だとは考えたいものですけど、もしかすると中国の高地、更にその岩山の上ではないかとか、霧が立ち込むと見えなくなってしまうというウーロン茶とかの生産地かな?

神武中国人説といますか、神々って、共通して、両羽の剣や銅鏡や勾玉、弓とかを持っていたとされてまして、いわゆる三種の神器って奴ですけど、実際には10種類以上あるらしく~

これが、国々、種族、直系を示すものだとすると、大陸からの移住者ということになりませんかね。?

主には、隋や唐以前の上海や黄海の周辺の国々、朝鮮半島からの移民で、最終氷期の7~1万年くらい遡ると、サハリンからの移動も少なくなかったはずですけど・・

ルーツですね~。

黒潮や数多くの火山活動の影響で、国内某所とても温かかく、雨も良く降り、動植物も豊富で暮らし易い場所が多かったハズなんです。

氷期は、陸続きなので移動に大きな船も必要なかったんですよね、たぶん。


その船と云うと
倭国は島国なのに船の歴史もハッキリしていません。縄文丸と安宅船くらいはわかったけど、瀬戸内海でダウ船が使われていたかどうかなどまだ不明な事も少なくない。

関門海峡って人工の運河ではないかという説もありまして、じゃ何時作られたのよって事ですが・・

"白村江の戦い" の話を聞く限りでは、遣隋使の頃には、木造の軍船を数千隻は維持していたのではないかとの予測もあるから、それ以前なのは間違いないのですけど・・

神武東征の際にも1000隻余りの軍船で南港目指してますよね。紀元前660年です。操船術、航海術もかなりのものだった筈です。

これって日向の国をもぬけの殻にして、というのは考え難いから、既に九州全域は従えていたと考えるべきですけど、太平洋側を伊勢方面へ進まず、なぜか、日向 → 国東半島 → 下関 → 山口 → 周防 →→→ 南港 のルートらしい。

鳴門付近が、勢力も含め難関なのを知っていた事になる分けだけど、既に中・四国も支配していたのかもって考えると、西日本の大半は従えていたとすれば、この時期に、1世紀くらい費やして関門海峡が造られた可能性は検討の余地あるのかも

大陸との交流もあったとすれば、地中海文明みたいに海上貿易の繋がりは必要なので古代、船はいろんな用途で重要な役割を果たしていた事になる。

・・で、高天原って何処にあったんだろうか!!

古墳分野では "896の聖域" って呼ばれているらしいですけど、古文書などの歴史資料からも、様々な事情で、今もって公開できない部分も沢山あるのでしょう~。邪馬台国に関してもそうかなって・・
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忽那諸島の縄文人 [永遠の謎なぞ]

台風10号の影響で、結構、雨降りましたけど・・
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-20-1
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-07
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-05-18

↑ 過去ログ参考 ↑



まずは、崖面の土製管ですが・・

高杯の脚.JPG
本日、土器の様子を見に行ってみると、やはり崩れ落ちていた。見えていた部分は、今回の豪雨で、もう原型もなくなりましたが、実は、土製管ではなくて、高杯形土器とその脚部だとの予想で、例の櫛珠円底土器にしてもその関係ではないかと・・

予想以上に、もろくて、1万年前頃の縄文土器ではないかとの予測です。

忽那諸島_貝塚発見続き.JPG
畑の奥でも、やはり貝殻何個も落ちていました。

縄文土器に円形型.JPG
貝殻と一緒に 6cm厚くらいある厚型土器の破片も落ちていました。円形の型が見えます。これ、裏側が湾曲しているので、底ではなくて、たぶん側面模様だと思うけど、縄文時代にこんなダイヤモンドリングが描けていたんだね~


例の櫛珠円底土器(櫛目紋土器)も、今回の雨で、かなり露出してきていますけど、やはり口が開いていないように見えている。

底は丸いし、古い感じの割りに、超整っているしでかなり不思議なのですが、平安時代に半島で作られた縄文レプリカではないかとの予測してますが・・

神道の祭祀(さいし)用の品々ではないかと思えてきてるのですが、朝鮮半島から東へ(出雲→防予諸島→伊予の国)経由で文化が伝播したという重要な手がかりが、ここら辺りに沢山眠っているに違いないです。


そのうち人骨とか出てきて、DNA鑑定で、ご先祖だって事にでもなったら凄いけどね~(笑;)。
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茶器の破片かな? [永遠の謎なぞ]

これも昨(2018年)年、夏の豪雨災害の痕跡ですけど・・

天谷_茶器_破片03.JPG
災害土砂を一次仮置きしていた天谷小学校グランドで、例の釉薬が施された土器と一緒に発見していた破片です。

参考 : 厚型土器破片の釉薬
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-07-09


天谷_茶器_破片04.JPG朱泥や紫砂で作られている感じなので日本のものでは無さそうな予感。


天谷_茶器_破片05.JPGこれだけなので何とも言いがたいけど、感じからして中国の茶器ですよね~

天谷_茶器_破片06.JPGそのあたりでサーチしていると 中国宜興(ぎこう) っぽい感じなことが分かる。古いものでは唐の時代に遡るとか

天谷_茶器_破片07.JPG
急須かな。? 茶道具だとは思うのですが、確かな事は分からない。

朱泥や紫砂で作られている茶器は、お茶の風味を益して美味しくなるらしいです。

中国宜興の茶器は今現在も作られているようで、お眼鏡に合うものがあれば、買ってみたい気持ちでいっぱいでした。
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ココヤシの実と縄文丸 [永遠の謎なぞ]

ちょっと思い出してますが、子供の頃は、お隣地区の海岸で、ココヤシの実が漂着しているのを時々見ることがありまして・・

清掃船の影響だと思うけど、最近は、漂流物も以前よりはかなり少なくて、ココヤシの実なんて、30数年以上は見てないけど~

ココヤシは、そうやって分布域を広げる植物だということで、調べてみると、ポリネシアや熱帯アジアが原産とあった。現在では、熱帯全域(回帰線帯のエリア)での分布が確認されている様子もある。

何処から流れて来たかに関しては、中予、瀬戸内海にもっとも近い分布を調べてみると、東南アジアになるけど、大人の頭より大きな感じだったの覚えてまして、北へ移動するほど実も小さくなるらしいから、ニュージーランドあたりの可能性も十分にありえるね。

後は海流、環流ですけど

忽那諸島の縄文丸1号.JPG
この島でも丸太の縄文丸(文化センター展示品)が発見されてるけど、近海の環流と分流が分かれば、縄文船の伝播ルートの模索にも繋がってくるかもしれないね。

尤も縄文丸自体は、どう見ても海岸漁用なので、せめてダウ船くらいの、風に乗れるタイプのものでないと、長距離移動は難しい~。

そもそも伝播したとしても、島から島へと時を経て広がったもので、人を乗せた状態で、単独長距離旅行は到底無理ですから、それでも遠方のものが発見されたとすれば、それは遭難で船だけが流れ着いたと考えるべきなのだと思うけど・・
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斉之神(日之浦)の遺跡 [永遠の謎なぞ]

一昨日は、10年か? ぶりくらいで斉之神へ向かってみた。

五輪塔の一部.JPG
平安時代を思わせるような五輪塔かな? 丸っぽいから水輪だと思う。御札(御祓大麻:おはらいおおぬさ)もあるようだし、何か弔うか、祀ってある感じですかね~。


ここが小野小町の噂のもとなのでは? って疑ってるのですが・・

五輪塔の一部02.JPG
平安~鎌倉頃に使われていた凝灰岩だと思うけど、1000年近くも経過すると老朽化もハンパ無い様子~

小町が詠んだ辞世の句を刻んだ石碑は土砂崩れで行方不明とされているけど、このあたりの何処かに埋ったままなのか? この種類の石だと、もう文字は読めないだろうな


周辺の大半は畑ですが、昨年の土砂崩れ被害の傾斜地でもあり、痕跡もそのままな様子だった。


余談ですけど、この地区の現在の天満神社(お太夫さんが亡くなられて後)は、隣地区の五十鈴(いすず)神社の神主さんへ、管理移行されているという事でしたが、創建も分からないままなのですが、祠くらいの神社時代も別の場所であるらしいという事で・・、参考資料みていると、同列の 綱敷天満神社 (今治市)の記載に、「徳川吉宗が八代将軍となって以降、1720年6月に、伊予松山藩主松平定英の命により社殿が築かれた。」とありまして、こちらも、その頃ではないかとの予測してます。ただ例の逆さで埋ってる玉垣は嘉永2年(1849)だったので、災害の後、現在の場所に新しく立て替えられたのだと考えついた。

※道真公は、舵のある船団で海路を大宰府へ向かわれている事や、その頃既に漁業に魚網が使われている事も分かった。



PS : 200万画素時代に撮影している、この五輪塔のPhotoが何処かにあるハズなので、出てきたらupする予定です。
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郡司は存在してたか [永遠の謎なぞ]

そういえば思い出してますが、移転してきた頃、50年くらい前かな? この地区にも、役場があったんですよ~。今は、電話が置いてあるだけの駐在所だけですが・・。資料によりますと1963年に島東部と統合して行政としては無能化されてる。粟井から宇和間までが、ひとつの自治区だったみたい。

では、それは何時からかと言うと

データベース『えひめの記憶』
三、伊予国人の諸相
1.忽那諸島の海賊衆

のページ、1405(応永12年)を境に、忽那氏は、忽那島西浦上分の地頭職を与えられているとあった。東部ではなくて西部なんですよね。

それ以前は、能島村上氏(海賊衆)が忽那島西部を所管しているらしい。ともに伊予の国、河野氏の支配圏の頃です。

この冒頭に、土着の国人(くにゅうど)が海賊衆を担っているとあるのですが、鎌倉・室町以前は、地頭が土着の国人だと考えるべきか、更にさかのぼれば奈良~平安期の郡司もあったと考えるべきか

・・彼らが海賊衆を先導してたと考えて良いようですよね~。もちろん海上利権といいますか、領土として海域にも支配力を広め、海上交通の利便性に着目していた証だと思う。

この運びだと、純友の名もあがってきても良いはずなんだけどね!! 付き合いもあっただろうし、何か県にとっての不都合なのか、史実の隠蔽なのかも

ここまで、こちらの謎のコーナーでブログにしてきたメモ書き程度の内容でしたが、既に松山市ではないのかも(汗;)、ここから先は今治市のようだな~


国内を統一したのは豊臣秀吉、その礎を作ったのが織田信長という歴史ではありますけど、武家政治が始まる遥か以前、1世紀には既に皇族家が支配していたんだよね~、この国(笑;)。

忽那諸島の謎でしたー\(-o-;)/


PS : 西地区には、獄舎の門の木とされている センダン、樹齢100年以上の巨木が何本かあるけど、コレが関わりあるのかも・・

夏なので、もうひとつおまけで
この地区で首無しの馬が走るというリアルな夢を何度も見るというのを聞いたことがあります。その方は、もうかなり以前にご高齢で亡くなられてますけどね~。


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国宝級なのかも [永遠の謎なぞ]

例の出土の件ですけど、神社や郡司とかの祭事用ではなくて、ホンモノ、いわゆるニギヤハヒ絡みの土器だとすると、国宝級の扱いの可能性もありえてるのかなとは思えてきているのですが・・

神話時代の事で紀元前の事だと思ってたのですが、神武天皇の話、マンガやゲームやドラマとかですかね? 日本書紀とか古事記とかですけど、1世紀頃の事のように記載しているものも多そうでして、2000年前後ならば状況次第では、ベンガラ塗装も残っている事も在りえるのではないかと至ってますが


雨にも負けず風にも負けずだね~。
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-20-1
本日の櫛珠ちゃん!! ※台風通過後(略)

一昨日の夜間は、レベル4の警告も出てたけど、かろうじて豪雨災害は避けられたようで、10mm/時を超えたのは1~2時間くらいだと思う。

で、皇族の配島流の地だという件ですけど、何時の頃からかは分かり兼ねますが、東京国立博物館に所蔵されているという、三種の神器の出ている古墳がある以上は、その頃から支配地域で主従の繋がりはあると考えても間違いではないとは思えてまして

藤原道真公を祀る各地区の神社にしても、藤原純友が瀬戸内海の海賊をまとめていた時期にしても、この距離で、周防や忽那島、能島・因島・来島の海賊衆が関係していないはずはありませんから、しかし記録がないというのは、未だに知られたくない黒歴史があり、隠蔽されている部分もあるのだと疑わない分けには、何も始まらないですし、この島の忽那文書以前の歴史も開かないまま・・


義賊・石川五右衛門(文禄3年8月24日※1594年10月8日)って、戦国期、安土桃山時代の盗賊の頭目がいましたが、この人物の最後は秀吉の家来に捕らえられて、一家全員が、磔や釜茹刑にされてしまいますけど、戦国期に武家屋敷に忍び込み財宝を盗めるものは忍者しかいないよね。彼は、伊賀者という説も既に整っていて、信長に続き、秀吉の動向も殺したいほど疎ましかったのは、当時の朝廷内部(関白の座を奪われたもの)ではないかと思えてまして、そんな史実は何処にもある分けは無いし、秀吉が知ったとしても史実には残せていない可能性ある。天正13年※1585年、日本で初の武家関白就任ですからね~。

甲賀も伊賀も特命で雇われ、特務的な内偵や工作をしていた影の者ですから、簡単には口は割らないですし、今の社会に至ってもその精神は受け継がれている感じもあり、ソースは明かさない事は、業継続の原則的な約定となってる節もある。関わってはいけない組織が関わっている場合は、隠蔽も十分に在りえるという話で、どうすれば丸く出来るのか、事態を治められるのかが最大の問題。


藤原純友の五輪塔では.JPG
例えば、純友の乱も最後には、軍資金の打診か何かで大宰府へ攻め込んでますが、そのような事がなければ、太宰府天満宮が現在も現存できているかどうかは疑わしいところで、写真はH12年の出土品という事で展示されてますが、もしこれが、純友親子の五輪塔であれば、かなり後に建立されたとしても、国内最古という程の古さは感じさせてくれてる。1段目と3段目に謎の穴の加工痕がありDNAが格納されてたのではないかとの予測。梵字も消えてるようだけど、X線検査で何か出てくれば、時代の特定に役立つのかも。

純友の動向には近衛家としての別の目的もあったとは思えているのですが、瀬戸内海の海賊衆を取りまとめているうちに、朝廷や大宰府内部に不穏がある事を突き止めた純友は乱を起こしたが、その後、追い詰められたか、配島流かで、ゆかりのあるこの島で生涯を終えたとすれば、橘氏か太宰府か北家の関係者かによって供養されたのかもって思うこともある。

しかし、震度1~2でも倒れて壊れそうなのに「さわらないでくださいテープ張りだけ」ってないよね。!! 大きさからして、かなりの人物のものには相違ないですし、五輪塔は列記とした墓ですし。こんな形で「室内展示ってどうなのよ」って思うのは自分だけ?

(略)

このパワースポットから農道を少し登ると、かなり古そうな凝灰岩の野面の石垣が数mの残ってるのですが、実は、そこは鎌倉の郡司が置かれてたのではないかと疑ってまして、市に統合されるまでは温泉郡でしたからね。中国や朝鮮半島、奈良や京都から旅で訪れると、この島の先には権現温泉や道後温泉もあるし別府もある。古代、カルデラを形成していたとすると、温泉があった可能性もあるし、あと、地名や住民氏名や職業、出土の透かし瓦や、例の櫛珠ちゃんにしても、祭事用にレプリカを作って保管していたのではないかとか、で襲撃で焼け落ちたか、土砂崩れに巻き込まれたかして、何百年も行方不明という事に・・。言い伝えも途切れた分けですよね~。


ちなみにうちの先祖は、泰の山城の石垣を積んでた人物かも知れないし、隣家の先祖は、その郡司の末裔で、築城を指揮していた棟梁なのかも知れませんし、天満宮の宮司の先祖は朝廷か幕府からの使者だったのかも知れないし、以前も愚痴ってますが、島内でもこの地区だけでして、謎は多いし、何も残ってない分けで(笑;)・・、純友時代か、それ以前からの戒厳令ですかね? 忽那水軍の土台を築いたのも純友に違いないと思えてるし、この地域で匿ってた事もあるのかも

伝え残すことが困難な時代に、石に刻む事もそうですが、何らかの形に残したりは普通ですよね。しかし暗躍が渦巻いてたりすると、至らない氏名や地名、句や唄を詠んでも、やはりトラブルの元で、消されたりも少なくなかった時代が歴史ですよ~。

吹く風、流れる水の如く・・、風水って、そういう歴史背景の現実から語られる術のひとつなのかも~

この島わ? っていうと、大里(おおり)山を中心に風水の八角形を重ねると見えてくるものもあったりして、平城京や平安京が村里作りのモデルではないかと思いあたりまして・・。周囲山麓に人々の多い集落があり、泰の山側には居ない分けではありませんが、また奈良、平安時代頃から今の地区名だったかどうか、境界が何処にあったのかも、まだ分かりませんが、知られていない古い歴史がある事だけは、今回、出土の土器からも計り知れる現状で


島の東側は伊予の国側で、大きな湾、入り江に恵まれているので普通に暮らすには適していますが、古い歴史は、出雲・周防国側から伝播してきたとすると、島の西側が古代から栄えてきていると考える事もできまして、西側は大里山の峰々から成る谷地形も多く、静かに隠れて暮らすには向いていたように思います。


時代が飛び回るけど、紫宸殿の "左京の桜・右京の橘"とは、左近・右近はともに衛府です。藤原氏と橘氏ですよね。それぞれ役目はあったと思いますが、護衛とかを務とする役組織のように思う。で、それの思想モデルなのですが、邪馬台国をセンターとして蝦夷を見た時の、瀬戸内海の本州側と、四国側を示唆しているのではないかと考える事もありまして

※略


海賊していた頃に風早衆の船を何処に隠していたかも謎のひとつで、シロやクダコやカイコやマルコには連絡網も置かれていたはずですけど、津和地や怒和島は適当な場所なのかもって思う。村上水軍の船は展示もされているけど、忽那水軍の船はどんなのだったのかベールに包まれたまま。でも縄文の丸木舟は出土していましたわ。今も文化センターに展示してある様子。杉かな? 何時頃の船か科学的に知る方法とかあれば良いけどね~。


島の不思議は、古代から続くこの特有の支配圏の移り変わりが関係しているのだろうと検討しているところですが、地形にしても人々の暮らしにしても飛鳥時代頃から、地震や土砂崩れの影響は多々あれど、農道や開拓農地以外は、さほど、殆ど、変わっていないとの憶測もある。


"雨降らば地固まる" の意味も少し理解できた気もしてる最中ですが、今回の地区は、秘密の園なんだと思うしかないな(汗;)

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天谷の思い出 [永遠の謎なぞ]

例の小学校の「天谷」という名称のいわれですけど、古代から支配エリアだったことや、平安時代以降、天皇家系の配流の地となっていたからという説に往きついてますけど・・


平成20年の廃校時の記録によりますと
明治7年には各地区に寺小屋のような学び舎が存在していて、その後、統合と改名を何度か経て、昭和16年に、西中島村立 天谷 国民学校と、この時はじめて天谷という名称が使われていました。


忽那文書のあった吉木地区ですが、大里(おおり)山から連なる峰々の谷地形に位置しているので、以前に使われていた日進館(吉木)や吉木尋常小学校となると、他の地区の手前、不都合もあるので、天の谷でアマヤとして統合したのではないかと思えてます。

www.matsuyama-edu.ed.jp/~s-amaya/01gakkou%20syoukai/gakkou%20syoukai.html
※詳しくは、こちら学校紹介のページを参照ください。


実は、ここでも悪夢が思い出されていますが
転校して暫くして、水泳大会があったのですが、500mだったと思うけど、小学校の西側に海が広がってまして、間隔125mくらいの波止場が2つあり、そこで通常の水泳の授業が行われていたのですが

それは記憶にあたらしい、夏休み明けの曇りの日でした。
2往復ですよ~。

海水の冷たさと、潮の干満差、環流の影響による離岸流など複雑な流れが発生しているし、それも数分単位で絶え間なく変化している状況。

想像できるでしょうか?
カブガフ潮は飲むし、向かい流になると、まったく前に進めなくて疲労は限界超えているし、途中、何度も、死に掛けてる(笑;)。

今考えると、大人教師たちの配慮だったのか、一番内側の流れの穏やかなポジョンだったようだけど、プールで 25mも完泳できない子供が、ドゲから更に何十分も遅れて、息絶えつつも、なんとかゴール

外側だったら、たぶん、死亡事故は確実に発生していると疑わない(汗;)。

海水って比重による浮力が、結構、凄いんですよね~。潮飲んでも、あわてず、肺に空気さえ貯めてれば、体に力を入れ過ぎなければ、中々、沈まないんですわ。

最後の折り返しは、ノーズだけ海面すれすれの犬掻き状態です。
これって ↑ 溺れてるんだと思うけどね~。

涙と鼻水と脱力感と震えがきてて、身体は薄紫色になってて、同級生や教職員みんなから笑われて、・・その後、熱い生姜湯たった1杯で黙らされてた記憶(笑;)。

生徒数はバカみたいに多かった頃だし、教職員にしろ、この島の海で人命救助が適切に行える人材は少なかったハズで、診療所はあっても、救急救命の知識や設備は整っていない時代ですよね~。


4年か5年の頃だったと思うけど、天谷の悪夢ですけど、「そういう時代よ」の一言で許されていた教育現場だったんでしょうね。
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今度は化石か ? [永遠の謎なぞ]

忽那諸島、本島南側 (神浦の西端から宇和間南端までの間) は、ほぼ畑が広がっていて、人が住んでいる様子はないエリアなのですが、それは、只たんに、日当たりが良好で、背に峰々が繋がっているので、人が住むより植物に良いからなのか、分からないのですけど・・


ダッシュ島の件ですが、
"その昔、由利島が二神島と陸続きで、巨大地震で、海面下へ35mほど沈下し1000軒ほどが水没し、今の状態だ" という部分について・・

地図を見ていると、その位置から数kmの対岸に当たりますから、昔は、人も多く住んでいたのではないかと、・・由利島の伝説は、実は、長浜の伝説が置き換えられたのではないかと思う事もありまして、・・地価評価額が下がるとかの理由ですかね ?! 

問題は、「その昔」が、いったい、何時頃の事なのかと云うことですけど・・


瀬戸内海は、温暖化による海進によって出来た内海で、この島の直ぐ大阪南港側は、ほぼ低地の陸地だった頃もあり、今治の沖合いには、琵琶湖より大きな湖が広がっていた頃があるという説があります。

この島には、小さな火口(マグマや煙は出でいない)があるし、溶岩石で出来ている黒磯という磯もあるし、この島を中心に、周りの島々とカルデラを形成していたのではないかと思う節も伺えていますが

海進・海退を考える上で、瀬戸内海の海水を除いた地形図を想定してみると、山口県~周防島~忽那諸島~愛媛県高浜までは陸で繋がっていた時代もあり、その付近には、南海トラフや四国中央構造線と、直交する巨大な断層が隠されていそうな予感もしてまして

もっとも近場では、安政の大地震の話は以前もしていますが、その時は島の西エリアも、大きな地震や津波被害があったように伝えられていました。まさにその発生ポイントが、この断層ではないかと



おまけ : 7月初旬のそこそこ降った翌日
例の縄文土器が出てきている場所で、たまたま鍾乳石のような奇妙な石を見つけました。
古代サンゴの化石 発見かも.JPG
この石、古代オブジェみたいで、右側を底にしてちゃんと立位するのですが、見た感じ、石器で硬度の試し加工がされてるような傷があります。

土の中から出てきているけど、長く海中にあった感じもあるし、洞窟の中で形成された鍾乳石かもしれないし、年代も含め詳しいことは、個人では分かりませんが

古代サンゴの化石だとすると、魚介類を取る為に、縄文弥生人は、海に潜ってた可能性もある分けでして、もちろん漁師の網にかかって上げられたものの可能性もありますが、いずれにしても、この地域のものであれば、数億年前には、この海でもサンゴが生息していた証明になるのかも。

※ここいらでも1世紀のポンペイみたいな惨事があっのかもだね、ミケランジェロ!!




やっぱ、自分、なんか、持ってるよね~!!

昨年の豪雨災害の後、例の逆さで埋ってる玉垣巨石を見つけてからというもの、不思議な事が続く毎日でしてぇ~(笑;)。

※そういえば、この付近の山畑の所有者が変わったらしい。近く埋蔵史跡に関する動きがあるのかも
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忽那諸島で貝塚発見(証) !! [永遠の謎なぞ]

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2006-03-17
という分けでして、先日迄のこちらナゾナゾのコーナーですが、14年以上前の「貝塚 みつけたかも・・」が、やっとホンモノだったと証明できたのかも・・

島の近くでは、ダッシュ・ロケ地になってた由利島で、発見の報告はあるにはあるのですが、こちら忽那諸島(本島)では、たぶん、はじめてではないかと思うけど、山を掘り返す分けにも行かないから、当分は、このままそっとして置くしかないのですよね~

※そのうち、近い将来? 豪雨や南海地震で土砂崩れとかあれば見つかるのだとは思えている。


https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
こちらは山肌からポロポロと崩れてきてるのですが、5500年も前の縄文土器から、解明される事も沢山あるんだという事は今回分かった気がしてまして、瀬戸内海の半分くらいは陸地だった頃の話ですが、海抜が40~50m低いければ島の周辺は汽水域になる。

今現在も沈降性の島ではあるけど、いつの時代か35m程沈下しているという経緯もあるらしい。由利島水没伝説よりもっと以前に、由利と二神島とは陸続きだったという説もあるし・・

放射線の半減期測定とかやってみなければ、時代が、やや漠然とし過ぎている結果でしたが、数万年前の土器だとすれば、具体性も増してくるので、この話はオープンにして瀬戸内海全域はもとより、西日本全域で、まとめる必要もありそうな予測です。


以下は瀬戸の海底図で参考にさせて頂いたページ
ttp://r1rawd.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/500md11-5201.html
瀬戸内海の、3D海底地形図



https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-20-1
しかし、もうひとつの問題、こちらはどうですかね~ ?!

たぶん平安~鎌倉頃の、天満神社の祭事用に作ったレプリカの須恵器だとは思うのですが、もしホンモノならば1万年ほど前のものです。

神武天皇や天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の存在を示す土器、邪馬台国の頃の支配圏を示す手がかりにもなり得るのかもという期待もあるけど、この神話は2700年くらい前の話という事なので、これも時代に誤差がある。

・・価値ありそうな予感もしてきたわ~(笑;)。




おまけ : わがままジュリエット 歌ってみたMIX

史上もっとも遅いということでしたが、四国もやっと梅雨入り宣言。

もう台風来てるらしいし、家の回り、急傾斜 崩落危険地域に指定されてしまっているので、崖崩れ要注意なんです。

これからハードになりそうだな・・
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ドキドキー 櫛珠ゃ~ん! [永遠の謎なぞ]

だいぶ霧も晴れてきてるので、ここらで仕切り直しです。

と云うことでマダマダ探索中なのですが、未だ触れないという土器・・
丸底は、縄文早期(1万年~6000年前)という事らしい。

これ ↓ シロート目にもそうは見えないです~。
櫛珠土器のレプリカ発見.jpg
仕上げ塗りか上塗りかの殆どは剥げてしまっているのかな? 釉薬? の垂れもあるようだし、それほど綺麗には見えてませんが、褐色はベンガラですかね。? を塗り重ねているような感じで、更に二枚貝の成長線のようなきめ細かな櫛文が施されている。

そしてトドメは、口が開いていないように見えている部分。赤土粘土、ヘラで均され面取りまで施され、ロクロで廻したか、型にはめて作ったかのようなギョクというに相応しい小型成形

※ちなみに面取り、面切り加工は、柱や家具の角の加工法のひとつで、607年に建造された法隆寺(推古天皇と聖徳太子が建立した寺院)の柱にみられるのが国内最古らしい。

櫛珠土器のレプリカ発見(丸底).jpg
第一印象は、その色から、昭和のタコツボ(未使用品)という感じだったけど、丸い底から土器? そして劣化をまったく感じさせないフォルム、レプリカかな? って事に。凛々しい容姿かたち。

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
↑ 先日の厚型式の縄文土器の破片も、外側のアール面は、七輪(しちりん)と間違えるほど、不陸の無さそうな正確な円弧だったので、このあたりで組織的にがん作とかの取り扱いがあったのかなぁ~という印象も無くもなくて、疑問はまだ消えていないのですが

土師器、須恵器の時代の復元品でなければ、江戸時代か、明治時代かのレプリカなんでしょうかね ? 或は、古い瓦やナイロン、瓶なども近くに埋ってるようなので、農道作成か宅地造成時に、既に発見されていて、本物とすり替えられているのかなって思えてる。


古代の中国や朝鮮半島で作られたものならば、レベルは段違いなはずですので、ホンモノの櫛目文土器かもという期待は無くもないのですが、それだと、ほれ、遣隋使や遣唐使もやや昔の事ですし(永住組みや密偵も居たのかも)、大宰府もあった頃なら、直便はなくても、リレーする商船はその後も行きかってたんだろうから

結局、また!! 倭寇の話のほうへ行ってしまうと、何かと不都合も(爆;)~

平安時代に豊後水道で海賊してたのは、宇和海の日振に陣を置く藤原純友という事でしたけど、門司も近いし、国東半島、宇佐にも近いし、大陸へ行きかう外国船を狙うには、最も硬いエリアで、「東風吹かば、匂いおこせよ、梅の花・・」的に、政治的背景は強そうだけどね。金比羅の「行きはよいよい帰りは怖い」なんて唄もあるぐらい~


彼は、藤原北家で、道真公の作った大宰府に親子二代で勤めていたという経緯があるらしい。元々は海賊を抑制する任に就いていたのだとか、いつの間か、ミイラ取りがミイラに~?

ここは、周防国と伊予の国の板ばさみの島ですから当時どうやって治安を維持してたのかなど分からない事が多い。飛鳥・奈良・平安期には、国府や国司、郡司も置かれていたはずですし、鎌倉・室町期には守護や地頭も置かれていたはず。

純友が乱に至るまでの間は、全盛期、瀬戸内海全域へ勢力圏が広まってたらしく、逃げ延びた従属たちも少なくない筈なのですが、うちも同じ家紋だし祖父以前の先祖がこの地で何をしていたのかが全く分からないんですよね~(笑;)。ご近所も同様だと思う(爆;)。そしてこの地区だけに限って歴史資料・史跡情報が少な過ぎてるのはなぜか? 

木を隠すには森の中っても言うし~(汗;)ね。この地に辿り着いて隠れていても、隠していても、何の不思議も無いのだけど、古三津には乳母がいて、墓石まであるとかないとか、このあたりで伊予の国勤めの橘氏に捕らえられて獄中死しているという話もあるけどね。どうかな?!

そのイキサツは、また改めて考えるとして、話戻しますが・・


ホンモノならば、口は小さくて別に蓋もあり、骨壺でなければ、毒矢ポットか、釣り針とかを仕舞う為に使っていた容器だって考えてみると、ちょうど良い大きさなのかも。ってか、戦前、皇室でも探していたとすると、特務とかで、ホンモノと置き換えられてるという説も・・

直ぐ横からは、サザエの殻が何個か出てきていまして、それはリンゴの芯だけが残る感じになっていて、かなり老朽化してそうなのですが、1万年前のものかどうかは不明としか言いようがない。炭素年代測定法とかでないと年代までは分かりそうもないですよね~\(-o-;)/。
このあたりが、個人の限界集落っす。
聞くと、地権者の協力も得られていないようで難色を示された。


□ 文化庁の関連ページ
ttp://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/maizo.html
後は、テレビ局を頼るか、考古館か、文科省か・・
市にはお知らせだけは済ませているのですが、発掘調査をするという話にまでは至っていなくて

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18
櫛玉に引っ掛りまして、↑ 一昨日の件ですけど、話を膨らませついでに・・
ニギヤハヒ本人か、の妻、瀬織津姫の墳墓か~
浪速って聞いてるけど、長髄彦(ナガスネヒコ)が眠っているとか~

神話の神武天皇とニギヤハヒがこの地域だとすると、この山、自体が古墳の可能性もあるという分けでして~。何年か前に出土の、今、行方不明の石群

 盛り過ぎかー\(笑;)/


じゃこういうのはどうでしょう。
島の北端に歌崎というのがありまして、斎灘(いつきなだ)に面していますが、瀬戸を行き交う船々には、潮待ち・風待ちというのがあり、当時はまだヨット的には進み難くかったはずで、追い風、追い潮に乗るのが常套だろうと・・

正式な斎宮制度(7~14世紀まで続いた)成立以降の斎宮も少なからずの人数で、起源はというと、やはり古事記や日本書紀の神話ということで、以前からあるにはあった事だという認識。震源的な災いの種 男女の仲にありですか、采女伝説、斎宮女御なんだね。余談ですが、そのリストにある名は、良い運命で人生を過せないという噂さもある。勤めに恵まれないとか、結婚できないとか、別れ易いとか、不幸を背負う星の名なんだろうか~。


古墳~平安期の頃に作らせた幣物の復元品(レプリカ)だとすると、原型を留めている理由にも思い当たる。

歌崎の由来は、今治方面20kmほどのところにある斎島という事でしたが、「斎内親王から幣物料を下賜した(配流記念の土産)」のが、その斎島で、潮待ちをしたのが、こちらの島だとすると、西から蝦夷に向かっていたと考えられるのですが?

或は斎灘の島々はすべて斎島だった頃の話か、まぁ分からないのだけど、その途中で墳墓に御参りをして御供をしたとも、今だ 小野小町 が立ち寄り歌を読んだ という発想には繋がらないまま・・


 やっぱ 盛り過ぎかー\(笑;)/


PS :
一昨日の透かしの引き両の瓦と一緒に出てきているので、守護や地頭の家宝として置かれていたものと云う説なんかも検討している最中。

邪馬台国の支配下より、支配権が変わっても、島要衝は継続して置かれていたと推測するべきかなぁっても思うのですが、瀬戸内海なので、忽那文書とかが最古と言うことなので・・

でも、鏡・剣・勾玉、他数点の神器とかは、既に島内の古墳から発見されてまして、東京国立博物館に寄託されてる様子。
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畑の奥から七輪? 更新。やばーぃ!! [永遠の謎なぞ]

本日の畑の奥の崖面です。

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-07
↑ 一昨日の雨の翌日から、何かあるのは分かっていたのですが・・

0618 七輪かな.JPG
これは、相当に分厚い感じと、土は、珪藻土っぽいので、たぶん七輪ですよね~。

これも、土器なのかと思ってたけど、紛らわしいのは、まぁ、そうなんだけど、しかし、ものは、相当に古そうな予感ですょ。

軽くみて、明治・大正って感じですかね~。
↑ ちょっと盛ってしまってるカモ

上に何もない林の崖面から、いったい何が出てくるのだろうー(笑;) 
このへん、変~\(-o-;)/

例の 弥生土器らしきは、次の 15mm/時 も越える雨で落下するとの予測あり。
一応、お知らせしとくかな~

回答 : 地元・文化センターの担当者は、昨年で定年退職されたとかで取り扱い自体が現在無くなっているらしいっす。

過去に何度か見学行ったことあるけど、市の考古館になりそうですかね~


//// 0619 PS : ///////////////
先ほど洗ってみたところ、櫛目文(縄文)らしきが浮き上がってきてます。
七輪土器20190619.JPG
これは、たぶん土器やでぇ~ \(-o-;)/
やっぱ、パワースポットなんだと思えてきたわー。
とうとう出てしまったぁーね!! ・・これから、どうしょう~(笑;)

今、考古館はイベント中らしいのですが、連絡してみるか・・。大雨の前に、妙な壺だけでも救出するか、・・判断悩むねぇ。


PS 追加発見です。:
七輪土器 赤と青 顔料.JPG
縄文~弥生時代、裸体に塗っていた日焼け止めと思われる青と赤の顔料(粘土)が内側2層に使用されているサンドイッチ構造?。水を溜めていた花瓶や、沸かしていた瓶的なものなのかも。

倭寇や、瀬戸内海の海賊衆、赤鬼・青鬼伝説が暴かれそうですよね~。陸の支配者 豪族 河野氏 と縁が築けていたのも、そんな暗躍があったからなのかも ?!

七輪土器 貝殻の化石.JPG
こちらは2~3mm以下ですが、二枚貝の幼生貝殻が土器の粘土の中に見えます。土器の製作時に海砂を混ぜているか、粘土の中に閉じ込められていた十数万年前のものかのいずれかだと思う。

しかし分厚いです。6cmはありそう。5000年以上前、縄文中期のものだと思うけど、いくら検索しても、もっか似たような土器は見つからない。壺も同様。国内で見た事もないような土器ばかり見ていたので、見た事もないようなものを作る事ができてたのかも知れません。



この山が大きな古墳だとすると、古代の有力者? ・・掘り出し直後においてあった行方不明の石群も探さないとイケなさそうな予感してきた。

やや神話と逢わない部分もあるけど BC660年とされている神武天皇の東征やニギハヤヒの存在も疑ってみる良い機会になるのかも・・
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モシカシテモシカシテ [永遠の謎なぞ]

2010年(寅年)に中島総合文化センターで「東京国立博物館里帰り展」が開催されていまして、その際の展示品などを紹介・監修した書籍が無料配布されているという事で、早速、読んでみました。

市の考古館のホムペから pdf も DLで可能
『忽那諸島の歴史を訪ねて』
ttp://www.cul-spo.or.jp/koukokan/information/kutuna_book.html
松山市 考古館 の DL ページです。


https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2013-02-05
今更ながらですけど、↑ これらと、3ページ目の右上の石群ですけど、似てますよね~

正確な位置とか、他に出てきたものとかは知らないのですが、数日、経ってから石増えてきてたのでブログにしていたのですが・・


古墳のほうは、東京国立博物館により、古墳時代5~6世紀と推定されているようです。



https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10
一昨日の旧石器~新石器時代ではないかと思われる石も、近くでわあるのですが、実は古井戸を囲うように何個も並べてありまして・・これも似てるわー。


https://petamun.blog.so-net.ne.jp/archive/c316073-1
こちらの詳細不明な土器にしても、須恵器(縄文~弥生~古墳時代)だと思うのですが、ただ下は卵型で自立しない形、横縞の櫛目紋溝があり、口が開いていないように見えているのですが、もしも蓋があって、何処か別の場所に埋まってるとすると、骨壺なのかもって思ってみてる。

崖に埋まっている土師器や土製管のようなものも、やはり副葬品って事になるのかな?

バラバラに出てくるのって、時代が違うか、農道が作られた際に異動させられたものか、豪雨による土砂崩れか、大地震や大津波の痕跡なんだと行き着いた。



話し戻るけど
火葬は、天皇とか貴族や僧侶の一部では6世紀頃には行われていたそうですから、疑う余地はなくもない? 弥生時代(BC10世紀~3世紀中頃)に大陸から伝播したとか

東京国立博物館に寄託されているという古墳の上においてある瓦作りの小さな祠が同じなんですよね。随分後で作られたものだとは思うけど、こちらの地区には10個くらいはあるはず。・・小さな五輪塔も何個もあるんだよね~。

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28-1
あと、この間の金比羅大権現様もこの地区でしかみていないから、何か邪馬台国や朝廷や幕府との関わりが遠い昔からあるのではないかと思ってみてる最中。

出土品かも.JPG
↑ 9年ほど前に隣地区の廃墟で見つけたもの。出土品かな?

ただ、pdf読んでみても、この地域だけ特に情報が無さ過ぎてる様子なので、ハイテク機器による調査とかしないと何も分からないのではないかとは思えてる。或は、古い時代から、そういった部外者の行動を拒絶し続けてきてた過去があるのかも知れないという、海べたの限界集落なのでしたが・・、基本、農道なので、山(柑橘畑)に入るな(登るな)というのは島全域で良く聞いてる話。

渡りの途中で休憩するオアシスなんだと思うけど、池に、オシドリカモとかいるんですよね。
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言われてみれば・・ [永遠の謎なぞ]

言わてみれば、この石も不自然ですよねー。
邪馬台国時代の加工石.JPG
3~5世紀頃のものではないかと思えてる。

問題は、どうやって加工したか、何に使っていたものか? ですけどね~。

下の石は磨耗しているから、海岸で拾ってきたものか、もっと古い新石器時代の人工物(磨製)か・・

おまけ : 2019 ハイピスカス咲く.JPG
鉢植えのハイビスカスです。大きくなり過ぎの元株を枯らす前に、挿し木しておいたものです。裏庭の半日日陰の場所ですが蕾も沢山出来てる。

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スーパーパワースポットなのか!! [永遠の謎なぞ]

関東はすっかり梅雨らしいけど、四国もそろそろ梅雨入り宣言ですかね~

昨夜は不意に降られてしまって、風も強かったようで、ペットボトルはあちこちに散乱してるわ、やっと出来たアロエベラの実(種)も、おこってしまってるわ~(今年もやっぱダメだったか~\(-o-;)/)。

朝は、庭が大騒動でした(汗;)。


という分けで、
このコーナーでやってる古代遺跡かな? の件ですけど、また行ってみると・・
透かし瓦06072019 出土.JPG
例の土管と見られる素焼の土器らしきのところですが・・

横から瓦みたいのが出てきてた。丸に2つか3つの引両紋 透かし瓦ですかね?
※2つだと鎌倉~室町時代の源氏~足利将軍家、或は織田家の家紋ですよね~。
3つだと伊達家の伊予の国の庶流家あたりかな?
もっとずーっと後の世の 藤堂高虎 絡みかな? この人物はヤバそう

ttp://www.ritoumeguri.com/experience/26428.php
↑ 参照ページです。
道真との関わりは平安時代なので、忽那義範氏、どうなんだろう!! 矛盾山積なんですけど、もしかして史実に添う発見か?。

南北朝時代の幕府の陣屋説も遠からずなので、未発見の山城の砦なのかもって思ってみてますが、参照ページによると城郭とあるけど、かなり古そうな野面積みが、少し登ったところに数メートル残っている事とも一致する。

近所の五輪塔や祠は、北朝方の? 源氏? 小早川勢の?・・

※姫ヶ浜にある鎧賭松の話は有名で、屋島の合戦と壇ノ浦合戦の間に、この地を 源義経 一行は通過している。話ほどは、穏やか悠長ではなかったということよね。

そして薄い小さい破片ですが、これは焦げ跡も付いていて弥生土器のものではないかとの推測。それらしきははじめて。

・・何か見たことないものばかりで全容も分からないし、「みたいな」とか、「のような」とか多くて、呼び名も付けられないですね~実際(笑:)。

中国や朝鮮半島の文化が、大阪や奈良、京都より速く伝わっていたのではないかと思ったりもしてまして、邪馬台国ですよね~。「国内最古とか最大」のとかってなると人目も引くのよね~。

あっ!!
今、話題の仁徳天皇陵とされている百舌鳥の古墳群ですが、百済王のものではないかと聞いたことある。軍を引き連れて倭に逃げ延びてたとすると門司~瀬戸内海ときて→ 大阪湾ですから~。王が亡くなった後、残された従者たちが乱れ、倭が乱れないよう高句麗に攻め込まれない為の対策で国力を大きく偽装したのかも


淮陰侯列伝の一説に、"敗軍の将は以って勇を言うべからず、亡国の太夫は以って存を図るべからず" ってのがあるらしいけど、これらも「敗軍の将、兵を語らず」・・遺言的事なんだろうかね~。

まぁでも屋島の合戦以前は、瀬戸内海の勢力は圧倒的に平氏側有利だったと思うんですけど、この忽那諸島内も完全に、南vs北で2分していたらしいし、・・画策がうごめく以上、決め付けるにはまだまだ情報が足りていない。


崖面の壺らしき(まだ全容は見えてませんが、上下が不明で、口が開いていない様子)は櫛目模様から、縄文土器ではないかとの予測できましたが、地区の道作り組合の方々が掘り出した石群は、既に当初の半分以上行方不明みたいですけど、これが副葬品だとすると古墳時代の古墳とも、そうでなくても竪穴式住居跡の痕跡とは考えられる。

釉薬も3重にも4重にも塗り重ねられているような感じで、まだしっかりと下塗りの色が残っている様子が伺えてるから、解析も可能そうで、かなり珍しいとは思えてますよね。

余談ですけど、瀬戸内海(忽那諸島)の海賊の馬印のひとつが、「六つ鐡」という事でしたけど、島内に六つの勢力があったか、瀬戸内海の海賊衆に6つの勢力があったか。やっぱ陸地より耐久性が強くないと脆くて直ぐに錆びたり朽ちたりは日常茶飯事なので、土器にしろ、鉄器にしろ、そのひとつひとつが長い年月をかけて鍛えられしワザモノだったことも伺える。



そして畑の奥の方の崖面でも・・
別の土器発見.jpg
何か土器らしきが埋まっているのを新発見です。以前から時々出ていた汽水域の2枚貝もまたまた、そこそこ出てきている様子。

そろそろ貝塚との証拠も欲しいところなのですが、予算も、経験も、知識にも乏しいといった現状で、指をくわえたまま足踏み続きそう・・

・・水路に詰まっても困るので、もっか落ちてきた貝殻と瓦の破片を集めてるといった状況。


土地の管理者の権利境界とか、地区の道作り組合とか、田舎なので意外とめんどくさい事もあるのかも知れないですね(汗;)。

道真の子孫で、藤原親賢が配流されてきたのが忽那水軍の始まりらしいけど、忽那重義の子孫で、忽那重清(兄・泰山城主)は北朝方、忽那義範(弟)は、懐良親王(かねよししんのう) 南朝方だったらしい。これが城郭なら、地元民も借り出されていたのではないかと思えてきた。

※ちなみに北(天皇家)と南(造反側の天皇家)の分け方は、当時、今の中国で作られた地図によると、日本列島は、朝鮮半島の先っぽから、壱岐対馬を経て、東に向かって延びていたという位置関係から、朝廷2分裂後の拠点を分けた呼び方で、太平洋側を北としたからみたいよね。


※1600年、関が原の合戦時に、毛利氏により三津浜が夜襲されているようで、伊予国の東軍方、加藤嘉明と藤堂高虎の領地は、強襲されてるみたいだけど、祠は、この時のものの可能性もありえている。




しかし、すべてがホンモノならば、まだゾウやシカを狩りしていた頃から最近までの歴史、証明書付きで、一挙に伺える スーパー・パワースポット だよねーここ。

島伝説の宝石箱や~ん v(笑;)!!



PS : 7日 23時頃の事。
山の上ほうには生息があるとは聞いてたけど、生まれてはじめて庭で 蛍 みた。サッシ窓に貼り付いて光ってたので、デジカメで撮ろうとしたら、ヤモリに食べられたー\(爆;)/。


 ひがし窓 ここにいるよと 恋蛍
             from うっぴぃ~

特に小さいという感じは無かったけど ヒメボタル かな?
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埋設物の件続き [永遠の謎なぞ]

続き

で、そもそも数年前に数枚の汽水域の貝殻が崖面に露出していた事から始まったことでしたけど・・

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-04-13
土器らしき壺に関しては、まだはっきりしていませんで、レプリカだとしても土の中から出てきたものだから、経緯を調べないといけないとは思っていたのですが、炭素年代測定に関しても、個人からの依頼は受けていないという事で、安くないのだろうね。

汚職とか関わってるとかね、ついついそっち方向で考えてしまうけどね~。

なので公的機関としか関わっていないのが現実みたいだから、金銭次第で、年代のすり合わせとかもできちゃうのかな~(汗;)
磨製石器時代の砥石.JPG
地区の道作り管理組合というのがあって、たぶんそこが管理しているのだと思うけど、以前の石群に関しても進展がなくて、今もそのままの状態なんですょー。

石器時代の砥石.JPG
それ改めてじっくり観察していたのですが、花崗岩や安山岩か石灰岩が多そうな中、何個か種類が違う古そうな石もあり、風化の仕方、砕け方や不自然な傷や角の削れ方から、旧石器~磨製石器時代から使われてる砥石とかではないかと思いついてまして。古代集落においてあったものですよね、きっと。それがいつのまにやら副葬品にみたいな

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2013-02-05
時代が異なるものが一緒に混同しているという感じもしているので、何世代ものあいだ、古代人の生活の場がそこにあったようにも思えたり

具体的には
2枚貝が汽水期のものだとすると、それは氷河期ですから、崖面には横穴式の住居もあったとの予測も出来なくもないし、土器らしきは、円底でクシ目文様があり、泥釉が施されている感じからして、~弥生期の木の実などを保管していた壺か、打楽器か副葬品かだとすると、水位も今と然程変わらないから、サザエの殻と一緒に出て来ても不思議ではないとも思うのですが、磨製石器であれば竪穴式住居戸跡か古墳ではないかとの予測も

まぁ、重信川河口を思い出すと、この島でも、面積も高さもそこそこあった時代だから、汽水貝が生息できるスペースはないとは言いきれないです。

また
周辺に小さな祠が沢山あるのは、源平の合戦による平家の落人(へいけのおちうど)だと高齢者からは聞いてるけど、それだとやや辻褄がね?。確証がないのが確証かもしれませんが、土製管や土師器みたいなものも、その方々の持ち物か、追われいる身の上で応急的に作ったものの可能性も否定はできていないのだけど
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E3%81%AE%E8%90%BD%E4%BA%BA
wik参照

もっとも、貝塚の下には良くあるらしいですから、古代の人骨とかが出土してたとの推測も無くはないので、まだ何とも

貝殻の破片は時々出てきてても、過去にある程度処理されているとすると、貝塚は見つからない事もうなずける分けでして~。

百済の土製管.JPG
本日も一昨日の雨で2枚出てたよ。たぶん土製管ではないかということですが、だとすると

ttps://4travel.jp/travelogue/10828538
↑ こちらに貼り付けられているものと似ている感じなので、そうだとすると半島(百済)から持ち込まれたものって事になるのかね? 京に向かう途中で海賊に襲われて遭難したとかだよね。

国内は、明日香村の飛鳥寺跡から出土した最古の水道管が唯一の例みたいだから史実が変わる? おそれも

全体像を見ない事には、これ以上は進みようもないのですが


で、この地域のお話に戻りますが・・
源平の合戦や南北朝時代や戦国期がメインなのですが、忽那水軍の島である以前に、平家の隠れ里になっていた地区もあるのかも知れないよね。

忽那っていうのは島々が骨をちりばめた様子に似てた事から、8世紀以前に「骨奈」とつけられた名称だと記されているってあったけど、戦の時代を知らない者にとっては、そんな風にはまったく見えない絶景ですし、古代人の人骨や動物の化石でもが、あちこちで発見されていた時代もあるのかなぁ~とは思えてたのよね~

この地で、水軍最強時代を一代で築いた忽那義範さんは、藤原道真さんのひ孫らしいわ。大宰府を拠点に、瀬戸内海の海上交通を支配し、いつか京へ返り咲こうとしていた感あるね。ちなみに藤原氏は、大化の改新の中臣鎌足が源流という事でしたけど、この藤原氏も鎌倉時代には、嫡流が五摂家に分立し、源流は没落している。学問の神としては今も生き続けているけどね。


ネットで調べているうちに、三津の近くにある忽那山というのを発見した。

伊予の国の豪族で最大勢力だった河野氏と支従関係があった頃の陸側の警備拠点なのかもしれません。

この島の海賊衆は藤原系地方土着列ということなので、普通は、屋敷や寺院で、城は築かないはずなのですが、それらが戦国期に築城しはじめ水軍となり武家化しなければならなかった理由もみえはじめてきた。1588年、秀吉の海賊停止令まで続く。

続きはまたいつか
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埋設物の件について [永遠の謎なぞ]

市役所にもチェックはして頂いてるのですが、こちらの謎々コーナーの埋設物の件について、一応、まとめてみます。

まず疑わしきがあった場合には、所轄部署へお知らせして、チェックして頂く必要性があるみたいで、まぁ利権者とか関わってるとメンドクサイ事も少なくないのも現実ですが・・

市としては、概ね江戸時代以前の史跡、歴史的な資料に関しては検討する方針という事でした。今回は歴史が浅そうという事で、もう少し眠らせておこうかという感じでしたけど、現実、個人ではなんも分からんからね~。

重要性のあるものは、文化庁の所管で調査が開始され、一段落できればケースに応じて、国や都道府県が管理するか、市町村(考古館や博物館)、或は発見者か地権者などの個人に帰属されるか、というような事らしいのですが、管理者不在となる場合は、国(市町村)に帰属されるのかな?! 費用の掛かることなので大変です。

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以下はページ改めます。

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赤色チャート 打製~磨製石器 [永遠の謎なぞ]

忽那諸島ですけど、本日は、以前に父が砂浜で拾ってきた石について!!

この島は、花崗岩や輝石安山岩や石灰岩とそれらが、風化侵食してできたまさ土と動植物の恵みといいますか、その腐葉土で構成されているのですが

調べていたら赤い石なのでチャートだという事だったのですが、このあたりではみかけたことがありません。近くも探していたら山口県や伊予あたりでは赤色チャートの石器は発見されているようだった。

最初は、機械でカットした石材の端材とかが、波打ち際で侵食された感じにみえてたのですが、よーく観察していたら、もしかしたら、縄文時代に、貝や木の実とか潰したりしていた石器かもって思えてきた。

赤色チャート 打製~磨製石器01.JPG
長 : 84mm
赤色チャート 打製~磨製石器02.JPG
幅 : 46mm
赤色チャート 打製~磨製石器03.JPG
厚 : 26.5mm
赤色チャート 打製~磨製石器04.JPG
重 : 230g。

打製から磨製くらいの中間的な石器ではないかとは考えてるのですが、石斧の作りかけか、すりこぎ石か、これも謎だな~(汗;)。

氷河MAX期は、降り積もった雪で、南極大陸は。エベレストより高い山だったと思うのですが、その頃って、瀬戸内海は、大部分が陸続きだったと思うのです。旧~新石器時代、毛皮まとって、横穴式住居で寒さをしのいでいた筈ですよね~。

島々は、沈降性という事で35mくらいは沈んでいるらしいという文献を読みましたけど、現在までの海進が100~130mくらいという事なので、当時の生活は100m以上の深い海の底ってことなんだと行き着いてしまった。

この石は、まっかな偽者なのか、7000年前以降のものか、何処からか別の場所から運ばれてきた可能性なども


● 参照文献
地形・地質 - データベース『えひめの記憶』生涯学習情報提供システム
ttp://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/1/view/16


PS : 伊予市の新川という、重信川の数キロ南側に海岸があるのですが、戦後はまだ、大きなハマグリが沢山とれていたらしいです。環境悪化でいなくなったのか、地下水の湧き水とかの現象で汽水域が徐々に失われていった結果なのかもって思う。

そうすると、この島でも汽水域の2枚貝がいた可能性はありそうに思えてきてる。


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令和初! 磨製石器かな? [永遠の謎なぞ]

連休前の出土物(←かなり最近の物らしいです)の影響で、先日もいろいろと調べごとをしてたのですが、過去、島の北側でナウマンゾウの化石と磨製石器(両刃の斧)が見つかっているという記事をみつけていまして、・・そうなんですよね~。

瀬戸内海からは、ナウマンゾウやヤベオオツノジカの化石は沢山引き上げられてるので別に新しい発見では無いのですが

で、今朝は、花壇ですけど・・
磨製石器かな004.JPG
昨日、雑草を抜いたり剪定とかしていると、妙な石が目に入りまして
磨製石器かな003.JPG
なんか割れてる感じですけど、
磨製石器かな002.JPG
角が削られているというのか
磨製石器かな001.JPG
風化ですかね?
かなり磨耗している感じなので ? もしかしてって思うよねー


古代人って、現代人がカネに執着するのと同じくらい、石には拘っていたふしもあるでしょ。なので、これからは転がっている石とかでも良ーく観察したい気持ちが溢れてきてる(笑;)。

で、ちょっと検索していたら、この間の貝殻の件ですけど、12万年前の汽水域に生息してたとする2枚貝の貝殻の化石写真をみたのですが、見た目、生きている貝とそれほど変らない状態のものも結構あるぞといった様子なので・・

粘土質というのか、保存状態さえ良ければありえるのかなぁと思ってみてる。そもそも12万年前くらいでは、琥珀や石の中に閉じ込められたりはしないのだと言うことでしたから。

縄文・弥生人は、肉とか魚介類とか、煮たり焼いたりして食べていたようなので、貝塚から見つかる貝殻は、表面が剥げて白化している感じなんだと思うけど、まだ自然の化石に近いものか、貝塚のものかの区別は出来ないっす。

現代人は、生活が忙しくて気がつく事ないのだろうけど、田舎には、当時のそんな姿をそのまま残し伝えている場所も沢山あるって事なんだろうね~。ってか、江戸とか明治時代まだ磨製石器とか製塩土器とか使ってた可能性あるよね~(汗;)
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令和の海進 [永遠の謎なぞ]

冬に雨が多くて、梅雨以降も、良く降るから変に思う気候続いてますけど・・

冬は極端に減るけど、1年中 蚊がいますよね。?!

あと先日の海進の件
1964年の東京五輪から今度の2020年の五輪の間に、日本でも 最大で 50cmくらいの海面上昇が起こってそうな予感あるんですけど?!

そんなこと無いですか?

実際に計ったりはしてないけど、瀬戸内海も、子供の頃と比べて 20~30cmくらい上昇しているんじゃないかと思う事は良くある現状。気圧が低い日が増えているのも原因かも知れないし、海水中の酸素濃度が増加しているのも要因かもしんないし、月の引力?

温暖化の最大要因は、まぁ2酸化炭素の増加は顕著ではあるのも確かですが、オゾン層の破壊の他にも、地軸の傾き率の関係でブレが大きくなっているからだという説もある。いわゆる軸ブレですけど、遠い銀河の消滅とか関係したり、太陽系の引力や重力バランスが不安定になる周期があるとすると納得いく事もあるのかなぁ。

日差しの高さが、毎年、微妙違うんじゃないかと思うことないですか。?

個人的には、太陽の異変や冥王星や海王星の起動も気になっている。あと発電所の発熱にも注目したいとも思ってるし・・
 
平均温度の上昇は、気候変動だけでなく、地殻変動も伴うはずなのだから、まぁ大変なことがロングスパンで続く事にはなるわな~。はっきり言って、人類の力の及ばぬ領域なんだろうと、最近、つくづく思えてきてた処ですけど。


瀬戸内海の貝塚の歴史と謎を解き明かす為には時代毎に水位を見極めないといけないんだけど・・、いろいろと検索してたらWik 海進 でありました。
以下(基準は現在)。

平安海進(701-1200年) 1318-819年前 8世紀1m低く10世紀戻り12世紀0.5m高く。
4500年前 現在と同じ位の水位
6000年前 4mくらい高い水位
縄文海進 7000年前頃、2~3m高い水位
8000年前 30m低い水位
1.12万年前 8000年前まで安定期で45m低い水位
1.4万年前 100m低い水位から急激な海面上昇が始まる。
7.2万年前~1.8万年前 100m低い水位まで海面低下
13.2万年前~12.7万年前 下末吉海進 高い水位があった。

このデータを元に瀬戸内海の海図や等深線図を作成すれば、その時代が良く分かるハズ。上下しているのは、間氷期や温暖化が原因らしい。

ちなみに恐竜は約6600万年前に絶滅している。この時、地球上の生物の7割がともに絶滅したとされてる。


では水位が下がり、佐田岬の豊予海峡(195m)と関門海峡(47m)と、淡路島の明石海峡(110m)と鳴門海峡(200m)が、地上部(陸)になると、海水が入ってこれなくなるんだけど、歴史的には海抜は100mくらいしか変動が無い様子なので、淡水から汽水化したのではなくて、元々、海水域だったけど水位の低下で、汽水域化が進んだ部分が増えたと考えるのが妥当なんでしょうね~。?!

天然の運河があちこちにあったとすると、海千山千で一大文明も築いてた時期もあるのだと思っみてるけど、その痕跡は既に海底に沈んでしまっているということだと思う。

海図がないぜぃ(汗;)。

Reiwa-Transgression
100年で1m以上水位が上昇するとの予測もあるみたいですね。
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Ring of Fire 倭国と呼ばれた訳 [永遠の謎なぞ]

2013年頃からニュースで良くやってましたけど、噴火した西之島が少しずつ面積が増え、海面から地上部が広がる様子。


https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23
この前の粘土層の中でブルーやエメラルドに光る痕跡で思ったのですが・・

1000~3000mくらい深い海だった頃があるとすると、それって、ジュラ期、白亜紀以前、日本で海面に出ていたのは、現在の富士山や南アルプス、阿蘇山、石鎚山脈くらいなもので、大部分は海底だったということだと思うけど。

氷河期の前は海水は大目で、氷河期中は少なめで、氷河期が終わる頃にはまた水位上昇して~、なので、100mくらいの高低差があるようなのよね。年間1cmの海面上昇速度です。

まぁ氷河期以前といいますか、恐竜期よりもっとずっと昔の事ですけど
太平洋トラフ・東南海トラフ・フィリピン海トラフによる地殻変動や環太平洋火山帯の活動で、巨大地震を繰り返し、その影響で海面に持ち上げられ隆起して出来た島だと言うことになるのかな~日本。

巨大なカルデラ湖.png
地形を見ていて行くつくのは、やはり日本海は、巨大なカルデラ湖だった時期があるという事。

日本海盆や大和海嶺、特に 大和堆 あたりは火口だったのではないかと・・

※海底地形図に関しては、wik 大和堆 参照!!

ちょっと余談ですけど・・
7世紀以前、倭国(わこく)と呼ばれていたのは、"環" の国という意味で、このカルデラ湖の事を示していたのではないかと思ってまして、大和国(大倭国)にしてみても大きい "環" とかだと思えるよね。

あと三国志の"魏の国"時代の魏志倭人伝とか思いつくけど、倭人とは日本人の事なので、これは当時の日本を記した歴史書で、平安の海進までの間にも、温暖化と氷河期の間で何度も海進・海退があった筈なんだよね。
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貝塚はじめてかな ? [永遠の謎なぞ]

またまた
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-04-13
壺?! 出たぁ~
の続きですけど !


縄文・弥生人は、結構、標高の高いところに住んでいたということが、最近(3.11以降)の発掘調査などで、分かってきてるらしいのですが、巨大な津波を予測していたというのか、それほど頻度多く巨大津波が発生していたということになりますよね~!! 海進は顕著だった分けだね。

見つけてた貝殻が、貝塚のものだとすれば、ちょうど縄文・弥生人の痕跡なのかなって思えてた。2枚貝が1万年くらい前、巻貝が12万年以上前だとすると納得行く。今より海面は10m高かった海水期と、100mも低かった汽水期のものかなぁって思う。

しかし、あの壺が土器だとすると、倭のものではない感じなのですが、時代の浅いものとすると、古墳時代、飛鳥時代あたりの、レプリカかな ?

今の浜名湖みたいに、比較的生活範囲内で、同時期に両水域が存在していた可能性はあると思うけど、貝とは時期があわない。・・時代が混同している事も十分にありえてるという実感。

おお磯がしびーち.JPG
幼い頃に良く泳いでいた海岸や、潜っていた磯を思い出してまして、海抜0mから、まだ1~3mくらい深い場所ですが、手前の30mくらいが海水浴場で砂エリア(昭和期の造成と思われる)、その奥には15cm大くらいまでの小石が20mくらい続くエリアで、更に磯へと進むと、1m大の石が20mくらい続くエリアがありまして、侵食具合と歴史背景から、小石エリアは、ざっと1500年前以降と、磯エリアは、戦国期以降の石切り場があったのではないかと思ってもみてる。

当時今より5mくらい海抜が低かったとすると、地上だった部分ではないかと思うのですけど、アクアラング装備で、もう少し深いところに潜って痕跡が発見できれば間違いないですけど、青藻に覆われた下は、深い堆積泥の層だということが分かるだけだろな。

汽水域期以前は、平均気温はかなり低そうなのですが、6000年前には、平均気温は2℃高い時期があるらしいけど、これが水位を4~5mくらい上昇させた原因かな。南海トラフの影響はあると思うけど瀬戸内海は海水レベルを知るのに良い条件揃ってそうに思うよね。


1000年くらい昔、城があった場所の裏側の磯で、水軍時代かな? の舟隠しのアンカーを立てるホールらしきを、見つけたことがあるけど、まだ表ざたにはしていない(フフフ;)、ホンモノかどうか分からないので

歴史的事象を正す自然があちこちに隠されていて、田舎って良いものですね~(汗;)。


瀬戸内海の誕生 という記事を読んでみたけど、どうも海抜、標高や島々の生活がピンぴとこなかった。
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平安期の天満神社かも [永遠の謎なぞ]

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-04-13
壺?! 出たぁ~

の続きですけど・・
出土していると言っても数個の事なんですけど、古そうな瓦の破片やたこ壺みたいだけど何か違う感じしている壺、素焼きっぽい焼き物の破片とか・・、土砂崩れの痕跡ありで、いろんな時代のものが混ざって一緒に出てきている感じで、どうもはっきりしない。

農道が通って柑橘畑が広がっているので、古い時代の地形の予測ができないのですが、ちょっと登ってみると、野面積みの石垣が2~3m残っているところと、小さな五輪塔みたいなのが2つ並ぶ古墳? みたいなのがあった。

その野面もいつの時代のものか分からないのですが、天満神社が元あった場所だと考えると、村の庄屋説や松山藩の陣屋説よりは硬い感じもしてきてるし、謎は広がるばかりです。でも陣屋説が無くなった分けではなくて、例えば、泰ノ山城跡とも近いので、城関連の建物があって落城時に前もって燃やされた可能性もあるのかも。


戦後、実際に、背丈くらいの祠があったという話は聞いたけど、どうも曖昧で確証を得ないまま。

天満神社が元あった場所だとすると、前回の戦国・黄金伝説を飛び越えて、話は平安時代にさかのぼる事になる。

藤原道真公が京の都を追われ、筑紫、大宰府へ移動する際に立ち寄ったのがきっかけらしいけど、島内に全域の各地域毎に天満神社は現在も存在しているんですよね~。

近隣地域には、賀茂神社もあるみたいですけど、これも秦氏と菅原氏とゆかりの多そうな感じで・・

あのひっくり返った碑の文字がもしも "奉" ではなくて "秦" だとすると、また見方は変ってくる。秦ってのは、中国人らしいから、まぁでも江戸時代は苗字が禁止されていたから、その線も無いかー

菅家聖廟略伝には "人にひかせず牛の行くところにとどめよ" という道真公の遺言がありまして、源氏物語の話聞くと、まぁお茶目な感じもするけどね。

そいう教えとして伝わっていたものがあるとすると、・・放置されたまま今に至っているのかもって思ってるのですが、近くの神社には、何十年か前から、ご利益のある牛(臥牛像)がいる様子。


あとは、貝殻だよね~。
地層で年代が分かれば貝塚の可能性も高くなるわけですけど、土砂崩れ跡では、その方法も思いつかない。炭素で分かるって聞いたけど、そんな鑑定できるとこの心当たりない~。

壺に関しても、古い壺に面取りは不自然だし、円底で自立し無さそう。きめの細かい横縞模様が入ってたけど、沈線文土器?。剥げているけどさび止めみたいな赤い塗料が付いてた感じが残ってた。見た目より小さくて手の平大。ほんとに弥生土器なのかな? 黄瀬戸、瀬戸焼、須恵器、大陸土産の壺か、製塩壺か、茶器か、漁具か、神器か、見たことない感じの壺、謎ですね~。昭和の初め頃に大学の研究室で作られた縄文レプリカとしか思えない状況もある。
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壺?! 出たぁ~ [永遠の謎なぞ]

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-04-23
貝塚はじめてかな ?
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-04-20
平安期の天満神社かも
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28-1
金比羅大権現の石灯籠
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28
魔の空白?!
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23
粘土が出てきたょー!!
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2013-02-05
出土した石群
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2006-03-17
貝塚 みつけたかも・・

また出たわ。こちらは綺麗な形のある壺ー!!
不明出土壺190413.jpg
弥生土器かと思いきや、円底、横縞クシ目溝文様、泥釉、面取り、かなり新しい感じだね。レプリカかな?!

ttp://ww51.tiki.ne.jp/~kura-kouko/yomoyama60.html
製塩土器 ↑ これかなのも


色や質感はたこ壺に酷似してるけど、ここが祠跡だとすると、縄かけるところも無いし、神器っうか?! ・・骨壺?!

まぁいずれにしても、専門家でないと気軽に触れないのですけど、こういうのって、痕跡や地層や周囲が大事なんだよね。

忽那諸島は、戦国時代以降、島内2分割期と、天領を併せた3分割期があるのですが、大洲藩の代官屋敷跡しか分かってないみたいで・・、もしも松山藩の陣屋跡だとすると記録が残っているはずなんですけど、それも無いみたいなので、もっと古い、忽那水軍(海賊)時代の隠れ家とか見張場の跡だと考えると・・

奪い取った財宝入れの壺とか、へそくり壺とかで、・・小判とか出てくると楽しいけどね(笑;)!!

4/19Ps :
この地域には、1585年(434年前)の黄金伝説があった。豊臣政権下、小早川隆景による泰ノ山城落城時の埋蔵金だー!! そうなると金属探知機も必要だな~(笑;)


良く見ると、釉薬では無さそうだけど、何か塗って焼いてある感じと、底? に「面取り」がしてあるから、歴史的にかなり浅いモノのように思えてるんだけど・・

サザエの化石かな!.JPG
それから、これも土からこぼれ落ちてた。大きさ的にはサザエより少し大きい感じだけど・・。しかし、この前の2枚貝の連なりならば汽水期なので変だよね。? 土中分解とか激しそうなので、もっと古くて、100万年以上の前のものかも~。



・・で、リンク7つになりましたけど、まだ何一つも解明できていない(汗;) ので、何処にも知らせてないし、知らせる適当な所も分からない始末・・

※検索していたら、 "樽(タル)" とは、水軍期の船の事だという記事があったので、安政の大地震や大津波時の、例の逸話の樽(タル)は、漁船だろうと言う事で落ち着いてます。



4月15日 PS :
一応、市へは、メールでお知らせしておきました。

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金比羅大権現の石灯籠 [永遠の謎なぞ]

金毘羅信仰の布教の波に便乗した形で、江戸時代1800年頃から、四国では、丸亀街道~多度津街道~高松街道~阿波街道~伊予・土佐街道を幹線とする金毘羅街道が整備されていく。(wik参)

ttp://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/36/view/5105
忽那諸島は、1808年の夏、伊能忠敬ら測量士16名が、1週間ほどの滞在で、この地域の地図を作成している。交通インフラを整える為には、まず共通理念で作られた全国地図が必要だった分けだわ。

金比羅大権現(石灯籠).JPG
背丈越えてます。たぶん2mくらいかな?! 地震で少しズレてる感じするね。


この頃の出来事の中で、際立ってるのは、嘉永6年(1853年)黒船来航!!
ペリー船団が浦賀に停泊し幕府と交渉をしてます。

後に、日米和親条約を結ぶ。

幕末、この出来事が、鎖国していた日本を開国へ導いてゆく事になる分けですが、海上および陸上交通・通信インフラの整備を進める事となった最大要因みたいですかね。?!

自分の住むこの町の金比羅大権現の石灯籠は、海上交通の安全祈願や豊稔・豊漁など祈願などとされていますが、まぁいわゆる、統治の道しるべ なんだと思う。

同じ大権現ですけど、東照大権現が家康公の事なので、これとは別物なのかな?! 高齢者の方々が時々お参りしているみたいな

灯篭の横と後ろに刻まれている文字は、風化が進み、完全に読めませんでしたけど、デジカメ画に編集かけてみたけど、やはり全く分からなかった。拓本が必要そうですが、管理者が不明なので勝手にできない現状。

ちょっと前みつけてる詳細不明の石碑の、何かの手がかりになればと思ったけど無理っぽいな~
ってか、元々、何処に置いてあったものなんだろうか?!
子供の頃には、この場所でこの石灯籠を見てた記憶がまったく皆無なんですよね~。



ps : 予測ですが、防予諸島(ぼうよしょとう)の海上交通、山口~愛媛間の道標だったのではと思えてる。建立されたのは、海賊禁止令のずっと後だとは思うけど、当時は、海岸にあったのか、或は、遮る木もなく、もっと見通しが良かったのかも知れないですが・・
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魔の空白?! [永遠の謎なぞ]

https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23
の続き

史跡なのかもしれないと思い書籍とか読んでたのですが・・

江戸時代、幕末期、ペリー来航以降、日本中が揺れた安政の大地震とか、同時期、この瀬戸内海(中予)でも巨大地震と大津波と豪雨災害が何度かあったこと以外は、被災現地の事が記された書物は、何も残って無さそうですよね~。生き残った人たちの記憶から語り継がれてきた事だけが頼りで、四半世紀の空白が目立つね。


逆さまで半分埋もれてた嘉永二年の碑。
中央に2名の連名が刻まれ奉られてる巨石。
嘉永二年 奉 玉垣.JPG
玉垣の類でしょうか

・・出来ることって限られるよね!! な~んか、難航しそう。

4/9 PS : 出土品は文化庁扱いとありました。ttp://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/hokoku/shutsudo/kangaekata.html
県教委とかの鑑査で、文化財と認定されると国庫に帰属するらしいです。


雨が続くと、山肌崖面からこんなのが良く出てくる。
シジミ発掘190328.JPG
ヤマトシジミとアサリかな? 、イガイや赤貝かサルボウなんかのか可能性も、はたまた、貝塚なのか地層から出てきた天然のモノなのか、それが問題だね~。12000年も経過しているとは思えないけどね~。

発掘01-190328.JPG
直ぐ横からは、かなり古そうな焼き物の破片かな? 白い部分は漆喰でしょうか? もしかして弥生土器って感じもあるけどね~。 あと先日の瓦と同じ感じの瓦の破片も何個か出てきてる。もしかすると、土砂災害以前、この上方には、庄屋か藩の陣屋敷か社寺などの建物があったのかも知れないと思えてきた。


PS :
近くの小さな古墳や前方後円墳から諸刃の剣が出土しているらしいです。
この手の剣は、国内では古墳時代前期の出土品でしか発見されていないらしい。


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粘土が出てきたょー!! [永遠の謎なぞ]

ちょっと面白いもの見つけまして~、文字刻んでる花崗岩みたいな・・、文字全部見たくて、土掘ってたら、粘土とかわらが出てきたわー。

粘土が出てきた。.JPG
良質な粘土層に、ブルーとエメラルドグリーンの粒が混じってるけど、何 ?!

3/26PS : 淡水成粘土層という事でしたけど、青は1000~3000m以上の深海で出来るとなっているけど、かなり瀬戸内海は浅いですから、世間の知らない、淡水時代の黒歴史とかあるのかもだよね~。山肌ののり面からあちこち見えている2枚貝(ヤマトシジミ?!)の白化したものは貝塚跡では無くて、古代、浅瀬だった頃のものって事になりそうですかね~。昔、汽水湖だったとは、ビックリ仰天ですね (笑;)。海水の流入で100mほど水位が上がってるらしいです。
https://petamun.blog.so-net.ne.jp/2006-03-17
↑ 13年前のブログ
※そんなに続けてんだね~このページ(汗;)

岡山県牛窓海海岸の黄島と黒島の資料によると、8000年前頃から、温暖化の影響で日本周辺で海面上昇が進んだ結果、瀬戸内海は海水化が進み、約6000年前には現在の状況に近くなったらしいです。それ以前は中国山脈と石鎚連峰の源流から流れる川の水で、淡水部分が多かったことが分かる。
ttp://www.infokkkna.com/ironroad/dock/walk/4walk12.pdf
↑ 詳しくはこちら

今後の瀬戸内海の海面上昇は、数メートルとの予測があった。


かわら出土.JPG
これは、たぶん、小さな祠の一部かもしんないです。近所で何個か見てるから。江戸時代のものの予感です。

こんなものでも土の中から出てくれば埋蔵文化財って事になるのかね?!



PS :ここ 腐葉土が20cmくらい、その下がまさ土でした。ただ普通の状態ではなくて一度流されてこの場所で固まったような感じの状態で、粘土も散存している事から、山肌地盤崩落の痕跡だと思う。刻まれた年号から安政の大地震頃の豪雨災害の土石流とM7~M6クラスの地震災害の痕跡だろうとの予測ができた。

凡そ150年くらいはこのまま放置されていた事になるんだけど、歴史背景が無いとはっきり分からないけど、仮にも "奉" と刻まれたものなので、何か、経緯は複雑そうだよな~
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Lightning II _Stealth [永遠の謎なぞ]

24日23時過ぎた頃から戦闘機が飛び始めてる。

この感じ、石鎚のてっぺんに突っ込むのではないかというくらい、低空飛行だと思うけど、深夜、家族がトイレに行く音よりも、ソフトなジェット音ですから、ジャンボでも、スクランブルでもない様子。 

まったく騒音レベルではないのですけど、田舎だから分かる音だわ、都会なら、この時間でも気づく人はまずいないですよね。

1往復してから微妙ピッチを上げてる感じで、2往復目は高度も微妙上げてる感じある。

今、日付もとっくに変わって2時15分ですけど、5往復かね?
行って帰るだけならば、年に2~3度はあるんですけど、夜間、こんな長い演習ははじめてやわ。

経過から考えると、低速で、およそ半径200Km圏内を往復している。

自衛隊や空港のレーダーにも捉えられていないとすると、18日に到着してる岩国の F-35B ではないかと思う。

ラプターの韓国就任の際は、ブログにもしてるけど、目撃した記憶もあって、たぶんそうだと思ってる。

飛ぶだけなら5000kmくらい軽いって聞いてたけど、嘘じゃないみたいですよね~。

・・凄いわ。 
察しますに、ゆっくり飛ぶということは、赤外線撮影とかもハンパないレベルで、飛んでる間に鮮明な地図が完成するくらいなんでしょうけど、偵察、特殊任務向きですね~(ムフフフ)。

しかし、なんだろう。? 

まだ改良の為の開発とか続いてるのかな。
はたまた、新たな南シナ海対策でも始めたのか、あるいは半島情勢が近頃また騒がしいご様子なので、暖機か、準備運動か、慣らし、ですかねぇ~。
ps : 今朝のニュースによりますと、昨日の午後、ロシアの爆撃機ベア(旧ソ連製で、エノラゲイみたいな巨大なプロペラ機)が日本列島を一周していたらしく、自衛隊機がスクランブルして追跡してたらしい、第二次世界大戦の末期に作られたものだと思うけど、F-35就任への挨拶なのかも


2時半過ぎたけど、高知の方へ向かったまま、戻ってくる気配が無いです。ルート変えたのかも、何時間飛ぶのか楽しみだったのに、 緯度上げて、基地に戻ったようですか。

パソコン起動させてると外の音が聞こえなくなるんですけど、3時過ぎに最後のジェット音聞こえたような気がする。 ・・4時間、4000km近く飛んでるよね~。


25日PS : 今朝も9時過ぎてから、お昼過ぎてから、縦横無尽に行ったりきたりしますね~。
微かに音はすれども何とやら、姿はどこにも見えないですけど・・

ハイタカ.JPG
空見てたら、ハイカタが飛んできて、奇跡的? フォーカスがあったみたいで1枚だけ撮れた。 距離あると結構UFOなんですけど、高感度の赤外線センサーとサーモセンサーと音センサーが組み合わせられれば X レーダーみたいなので、追尾できそうな予感あるよね。ステルス機が見えるようになるのも費用と時間の問題だけかも・・
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